朝日新聞
平成15(2003)年4月10日(木)
人類とウイルスどう闘う
SARS流行
山内一也・東大名誉教授に聞く
中国と香港を中心に、世界各地に感染者が拡大している新型肺炎・重症急性呼吸器症侯群(SARS)。
死者は100人を超えたが、感染源はいまだに特定できず、国内外で対策の不十分さが指摘されている。
新手のウイルスがもたらす脅威に、社会はどう向き合うべきなのか。ウイルス感染症に詳しい東京大学
名誉教授の山内一也氏に聞いた。(聞き手=編集委員・田辺功)
新手のウイルスなぜ登場?
開発進み野生動物から
−− このところ、新型肺炎だけでなくエイズ、西ナイルウイルスなど、様々な感染症が私たちを脅かしています。
「これまでまったく知らなかった病原体が出現した場合と、存在は分かっていたけれどそれほど悪さをしな
かったものが、急速に広がって社会的影響を及ぼすようになった場合とがあります。
厚生労働省は前者を
新興感染症、後者を再興感染症といっていますが、われわれは合わせてエマージング感染症と呼んで注目
しています。エマージは『新たに出現した』という意味です」
−− いろいろな抗生物質の登場で病気は抑えられるようになっていたのでは。
「80年代まではそう思われていましたが、今や抗生物質に耐性を持つ菌がどんどん出現し、『最近の逆襲の
時代』といわれています。 一方、ウイルスには抗生物質に相当する万能薬はなく、限られた種類にのみ効く
ものしかないのが現状です。」
−− なぜ新しいウイルスが現れるのでしょうか。
「新出現したウイルスも、急に生まれてきたわけではなく、昔から野生動物の体内にあったのに私たちが気
づかなかっただけです。動物と平和共存して何千年も生き続けていたものが、ヒトに感染するようになって
初めてその存在がわかった=表」
−− 動物のウイルスがどうして人間に感染するのでしょうか。
「開発が進んで、森林など野生動物のすみかにヒトが入るようになったため、ウイルスの移動が起きるように
なったんです。95年にエボラ出血熱がザイールで多くの人の間に広がってしまった背景には、注射器の使い
回しで他人の血液に触れてしまうといった劣悪な医療環境の間題がありました。また、エイズウイルスはアフ
リカのチンパンジーから発生したと推測されていますが、これがアフリカ以外に広がった裏にも血液製剤の投
与や薬物注射といった近代社会の現象がありました」
感染症への対策は?
地球規模、情報共有進む
−− 今回の新型肺炎は中国広東省から現れたといわれます。病気を起こす「犯人」は何でしょう。
「コロナウイルスという、風邪や下痢を起こすウイルスが原因として一番有力です。ニワトリにもブタにもヒトに
も同じようなウイルスがありますが、あらわれる病状はかなり異なります。今回確認されたものを調べると、
これまでとは遣伝子の構造がかなり違う。既知のウイルスが変異したのではなく、おそらく未知のものでしょう」
−− やはり野生動物から?
「世界保健機関(WHO)は動物からと疑っていますが、家畜や家禽からというのは考えにくい。野生動物から
の可能性が高い、という点は過去の例と同じです。ただ、従来のものと全く異なるのは、人から人へと簡単に
感染していることです。これまでの新興感染症は相当濃い接触をしないとうつらなかったから、今回の衝撃は
大きい」
−− 空気中を漂うウイルスから感染するいわゆる空気感染の可能性も指摘されています。
「せきやくしゃみで飛び散ったつばなどから1、2メートル離れていても感染します。加えて空気感染もあると
すれば、より危険性は高い」
−− 患者さんへの対応はどうなのでしょう。
「残念ながら、原因と見られるウイルスに効く薬はいまのところありません。病原体が広がらないよう防御対策
をした部屋に隔離して、治まるのを待たねばなりません」
−− こういった新しい感染症への有効な対策はできそうですか。
「80年に天然痘ウイルスの根絶宣言がなされ、『人類は感染症を克服した』という認識が一時広がりました。
しかし、エイズやハンダウイルス肺症候群などウイルスによる新しい病気の流行をきっかけに、93年にWHO
などの国際機関が『感染症への地球規模の監視が必要だ』と表明しました」
−− 具体的な対策は。
「94年、プロメド(ProMED)というインターネットのフオーラムができました。そこには各国のボランテイアから
情報が寄せられ、感染症研究者がそれらを選別しコメントしている。地球規模の情報共有が可能となって
います」
−− 今回の流行でも役割を果たしたのですか。
「2月10日に一人の医者が『中国・広東省で致死的な肺炎が流行しているとの情報あり。関連情報求む』と
プロメドに訴えられたのが最初でした」
日本上陸への備えは?
悲観不要、正しい情報を
−− SARSは日本にも上陸するでしょうか。
「危機管理の基本は、最悪のシナリオで対策を考えておくこと。今回、感染がアジアのみならずカナダなどに
広がった原因は世界のグローバル化にある。日本もその流れに組み込まれています」
−− 厚生労働省は検疫の強化が対策といいますが、グローバル化する中では困難な課題です。
「難しい面もあるが、診断の迅速化など取りうる対策はある。原因と見られるウイルスは捕まえているので、
診断態勢はできるでしょう」 「しかし、90年代半ばから新興感染症への対策を進め、98年からはバイオテロ
対策にも乗り出している米国と日本とでは差があります。米国は、01年の炭疽菌事件でさらに強化され、構
築された全米レベルの緊急オペレーションセンターが今回も機能しています」 「日本でも99年に感染症法が
改正されるなどの対策は進んでいますが、そもそも感染症の専門家が少ない。病原体を外部へ出さないよう
にする特別室なども不十分です。大事なのは、対策状況も合めて、危険の実相を正しく十分に伝えること。
今回の流行について、米疾病対策センター(CDC)の幹部は『手を清潔に併つ、マスクをするといった基本的
な安全対策の重要性を再認識しよう』と呼びかけています。ごく基本的なことですが、その通りです」
−− 発生当初はバイオテロの可能性を指摘する声までありましたね。
「私はその可能性はないと見ていました。ただ、もし天然痘ウイルスを使ったバイオテロが起きたら今回のよう
な規模では済まないと思います。もともとの感染のしやすさに、グローバル化という昔はなかった要素が加わ
るからです。『今回の流行は、バイオテロに対する予行演習』という声も米国にはあります」
−− 感染症との闘いは続くということですね。
「地球の中で大部分を占めているのは、人間や動物ではなくむしろ微生物といわれます。しかし人間は科学
技術を持っている。いかにこれを活用するか。今回も、ものすごい短時間でウイルスを分離し、遣伝子解析も
できている。だから悲観することはありません」
主な新興感染症
発見・確認 |
病原体 |
病原体の種類 |
病名・症状 |
69年 |
ラッサウイルス |
ウイルス |
ラッサ熱 |
73 |
ロタウイルス |
ウイルス |
小児下痢症 |
76 |
レジオネラ菌 |
細菌 |
レジオネう感染症 |
76 |
エボラウイルス |
ウイルス |
エボラ出血熱 |
80 |
ヒトT細胞白血病ウイルス |
ウイルス |
成人丁細胞白血病 |
81 |
ヒト免疫不全ウイ ルス(HIV) |
ウイルス |
エイズ |
82 |
大腸菌0157 |
細菌 |
出血性大腸炎 |
83 |
ヘリコバクター・ ピロリ |
細菌 |
消化性潰瘍 |
89 |
C型肝炎ウイルス |
ウイルス |
C型肝炎 |
92 |
ビブリオコレラO 139 |
細菌 |
新型コレラ |
93 |
ハンタウイルス |
ウイルス |
ハンタウイルス肺症候群 |
94 |
ヘンドラウイルス |
ウイルス |
呼吸器障害 |
97 |
インフルエンザH5N1 |
ウイルス |
ニワトリからヒトに感染 |
98 |
ニパウイルズ |
ウイルス |
脳炎 |
98 |
西ナイルウイルス |
ウイルス |
脳炎(99年に北米で突然流行) |
03 |
新型コロナウイルス? |
ウイルス |
重症急性呼吸器症候群SARS |
(WHOの資料などから作成)